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コラム「坤輿万国全図」砂漠のSDGs・水循環と陸の豊かさ

2021.5.19

コラム「坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)」2021年皐月号「砂漠のSDGs・水循環と陸の豊かさ」

鄯善(中国語読み:シャンシャン、日本語読み:ぜんぜん)、タクラマカン盆地の北東縁、シルクロードの天山北路にある街。南京から西へ3000km、高鉄(中国の新幹線の呼び名)よるシルクロードの旅の最初の目的地としてこの地を選んだ。スマホと身分証と一つの言語だけで3000kmの陸路を安全に高速鉄道での旅ができるのは現代の中国しかあるまい。

鄯善の地名の由来は古く、紀元前77年漢の軍隊の駐留を契機に楼蘭国が改称した国名として鄯善の名が登場している。天山山脈から下る扇状地地形の末端、南にクムタグ砂漠(庫姆塔格沙漠)が迫るオアシス都市である。隣町のトルファンのデータであるが、年間の降水量がわずか15mm余り、東京の1/100。乾いた光線が眩しい小都市である。この街に至る途中2つの疑問を持った。一つはこの地形を造った水の行方?もう一つはあの砂漠の下に何があるか?である。

ホテルの窓からは迫りくるクムタグ砂漠が見えた(写真3)。翌日、あの砂漠を目指し、徒歩での観光を始めることにした。この旅でもたくさんの写真を撮った。“水の行方”と“砂漠の下のもの”について写真を用いて紹介したい。

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天山山脈南麓の扇状地(おそらく地形変換点)で地表に現れた水はオアシス都市鄯善の水源となり、街路樹や葡萄果樹園の灌漑水(写真5)となり、扇状地と砂漠のせめぎ合いの境界(写真8)で砂漠の地下に潜る。内陸側に沈む地形であるタクラマカン盆地には河川の出口はない。砂漠に浸透した水は砂漠の砂の下に膨大な量の地下水として貯留されているであろう。数千年の昔は今よりも水位が高く低地では湖や湿地が広がっていたと信じる(写真9の痕跡)。この地下水は乾燥した砂漠の環境下で蒸発し雨水氷雪となって天山山脈に降り注ぐ。多くは伏流水として、稀に扇状地堆積物を運ぶ突発洪水として、鄯善の街を再び潤すことになる。わずかな降水量であっても自然のフィルターを用いた水の循環再生でこの地の陸の豊かさは数千年以上維持されている。・・・この旅の感想である。

弊社にも高機能フィルター(精密濾過(MF)領域)の能力を活かした水循環再生装置(ECOクリーン)がある。関心を持っていただけると幸いである。

写真1 高鉄車窓からの光景、敦煌付近。乾燥したまばゆい光線の中に無数の風力発電の風車が回転している。既にクムタグ砂漠を移動している。中国人観光客など多くの乗客は敦煌駅で下車して行った。地表には所々に流水による侵食の跡があり堆積物の顔が見える。扇状地の堆積物である。

写真2 緑の植生の場所が鄯善市街。北(写真上)の天山山脈から延びる扇状地地形と南(写真下)のクムタグ砂漠の境界(水成堆積物と風成堆積物の“せめぎ合いの境界”)に水が流れ、街ができている。

写真3 ホテルの窓から眺め、迫りくるクムタグ砂漠。

写真4 ホテルからクムタグ砂漠へ向かい通り、レストラン街と街路樹。刺すような日差しであるが、木陰の通りは心地よい。

写真5 通りの両側に水路があり清流が流れていた。少し冷たく扇状地伏流水が地表に出た水であろうと想像する。この水は堰によって葡萄畑に導かれていた。灌漑用水である。

写真6 土造りの家屋が並ぶ伝統的な街並み。写真を撮りながら歩いていると声をかけられる。私が日本人であると知るとお茶に誘う人もいた。土産の品が全くなかったのでお断りしたが、次は土産の小物を持参しよう。

写真7 クムタグ砂漠。観光地化されており、多くの人々が砂丘を登っている。

 

 

 

 

 

写真8 扇状地と砂漠の“せめぎ合いの境界”の最前線。湖ができ、小河川が流れている。既に“砂漠の下のもの”が見えている。樹木が豊かで、樹木の中を歩くとなんとも馨しい香りがする。遠くシルクロードの旅人も、この香りに惹かれたに違いない。

写真9 砂漠の下の堆積物(写真上半分が砂漠の砂、下は水成堆積物)。これが見つけた“砂漠の下のもの”である。灰白色、近づいて観察することは差し控えたが、色調・垂直で安定している斜面・縦方向の根の生痕と思われる縦穴からしてシルトを主体とした湖沼堆積物と思われる。見たところ千年以上の時を経ているか。この堆積物の上面は今の湖沼・小河川の水面より1〜2m高い。今から二千年前、ロプノール湖が存在し桜蘭国(改称して鄯善国)が栄えた時代には、この地にも広大は湿地・湖が存在したと信じる。

写真10 その後寝台列車を使いウルムチまで行った。市場で魚屋を見つけた。聞けば地元産の水産物とのこと。種類は少ないが鮮度は良さそうである。砂漠の中の街でも、水環境がもたらす陸の豊かさを実感する。笑顔・私が日本人であると知ると多くの人が笑顔で迎えてくれた。